あまりこの映画のことばかり書いているのもなんなので最後にするが、今度はメインストーリーではない、サイドのエピソードについて見てみる。
どこかにこの映画の舞台となっている昭和33年について「貧しくて不便だったけど、将来には希望が満ち溢れていた」時代というようなことが書いてあった。(どこだっけな)そこで、今回はこの時代について、シナリオではどのような描き方をされているのか、を見てみる。
まず、将来への希望が語られるシーンとして、思い出すのは則文が六子に語ったこの台詞である。
則文「だけどな、どうしてもただの修理工場って書きたくなかったんだ。書いちゃったらそれで終わりのような気がしてな。自動車はこれからドンドン伸びる産業だ。俺はウチがちゃんとした自動車会社になるのだって夢じゃないと思っている。いや、それどころか、自動車で世界に打って出ることだって出来るって考えているんだ」
本編の中で一番将来への希望が語られる場面である。
意外かもしれないが、台詞として明るい将来が語られる部分はここだけだと思う。人間、そんなに将来への希望ばかり語っているわけではないのだ。
鈴木家にテレビがやってくる場面がある。夕日町三丁目界隈でははじめてのテレビだったと見えて近所の人々が大勢おしかける。
淳之介「早くして下さい! 始まってしまいます」
茶川「…あんな非文化的な見世物の何がいいんだか。大体、あんなものはな、一億総白痴化といってだな…」
脚本家の凡ミスか? 一億総白痴化、という言葉ができたのはかなり後年のことだ。だいたい昭和33年には日本の人口は1億もない。
しかし、茶川もその後鈴木家に駆けつけて、結局は力道山対ルー・テーズの試合を見ることになる。
鈴木家には、氷を上段にいれ食品を下段に入れるという冷蔵庫があった。氷が溶けると、当然庫内の温度は上がってしまい、食べ物が腐りやすい。
テレビがはじめて届いた日、六子は食中毒で宅間医師のお世話になる。氷冷蔵庫の中で腐ってしまったため捨てておくようにいわれていたシュークリームを食べてしまい、あたったのだ。
トモエ「シュークリームって…イヤだ、あの痛んだシュークリーム?」
一平、六子に耳を寄せる。
一平「生まれてはじめて見たんで、どうしても食べてみたかったんだって」
青森の農家の娘である六子は、シュークリームという都会的な菓子に触れる機会がなかったのだ。
この後、鈴木家は電気冷蔵庫を購入する。
氷がなくても冷える冷蔵庫に感動した則文は、冷蔵庫に顔を突っ込んで冷気を味わう。
トモエ「でもおかげでうちもそろっちゃった、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、三種の神器。大丈夫かしらねお父ちゃん?」
則文「(言葉に詰まる)ばりばり稼げば何とかなるさ。なあ、ロク」
氷式冷蔵庫が使われていた頃は、毎日のように氷屋が氷を届けにきていた。
鈴木オート・裏庭
古い氷式冷蔵庫が出されている。
それを路地から塀越しに見ている氷屋。
ひとつ溜め息をして、自転車で去る。
台詞のないシーンだが、ペーソスの感じられる場面だ。
新しいものが登場してきて便利にはなるが、その影に使われなくなるもの、捨てられるものもある。
そんな交代劇がはじまった時代をうまく表現している。
最後に、私の好きなエピソード。
注射をするので子どもたちからはアクマと恐れられる宅間医師の素顔。
宅間医師がヒロミの店「やまふじ」で飲んでいる。
帰りがけに、焼き鳥を持ち帰る宅間医師。
ヒロミ「お土産ですか?」
宅間「(間があって)…娘の好物でね」
ヒロミ「あら、娘さんおいくつですの?」
丸山「(小声でヒロミを制す)ヒロミちゃん」
ヒロミ「?」
この後、宅間は帰宅して妻と娘に迎えられる。
妻子の顔を眺めたまま、うとうとと眠ってしまった宅間だが…。
気がつくと、野原で寝ている。
パトロール中の中島巡査が声をかけてきたのだ。
宅間、ふと見ると焼き鳥が何かの動物に食べ散らかされている。
中島巡査「(焼き鳥の残骸を手にとり)ははあ、ここらへんはまだ狸が住んどりますからな」
宅間「…狸?」
中島巡査「こりゃ先生、化かされましたかな」
この後、宅間は帰宅するが、誰も迎える者はいない。
ヒロミと常連客の会話で、宅間の妻子が空襲で死んだことが明かされる。
東京の真ん中に狸が出没し、戦災の記憶もまだ生々しく残っている。
昭和33年という時代を象徴する話として、このエピソードが一番印象的である。
この映画、またDVDなどで見ることになるかと思うが、その時にはもう一度何らかの形で書いてみたい。